僕がスシローを全人類に勧める理由

自分で言うのもなんだが、僕は比較的裕福な家庭で育ってきた。幼少期は父親の事業がうまくいっていたこともあり、富裕層とまではいかないでもかなり金に余裕のある生活をしてきたし、父親が事業を畳んで僕たちのもとから去っても尚、母親が大企業の管理職であったこともあって、母子家庭ではあるが、ある程度裕福な生活を送ることはできていた。

そんな僕だから、幼いころから寿司といえば廻らない寿司だったし、安い寿司を口に入れたことすらなかったと思う。僕がスシローに出会うまでは「回転寿司?そんな安い寿司を食べるなんて僕のプライドに反するね」とまで思っていた。

そんな僕がスシローに出会ったのはおよそ5ヶ月前。たまにはこんな店で安い寿司を食べるのも一興かと思って、ある意味半分見下しながらその暖簾をくぐった。スシロー南池袋店。のちにマイホームとなるその店をくぐった日を僕は決して忘れることがないだろう。

果たして、僕はスシローという店に取り憑かれてしまった。僕はそれまで数多くの一流寿司店を渡り歩いてきた。どんな寿司が美味しい寿司なのか、酢飯の具合は、シャリの温度は、ネタの鮮度は、そういった全ての指標を僕は若いながらに完全に理解できていた。そんな僕がこの「スシロー」という店に対して星5つの評価を下した。築地、豊洲、銀座、六本木、数多くの寿司店を渡り歩いた僕だからこそ下せる評価。スシローは僕にとって全てが完璧であった。「これは高級店の味だ」僕は初めてスシローに入った時にそう思った。

はっきり言おう。最早全ての高級寿司屋はスシローの前でなすすべもなく敗北するだろう。もちろん、仕事やネタの質でいえば、スシローに勝てる店も中にはあるだろう。しかし、値段と満足度の比較でいえばスシローに勝てる店は最早この世には存在しないといっても良い。無論、際限なく金を払える階級の民はスシローよりも美味しい寿司屋に行けばいいだろう。そんな店は高級寿司屋の中でも一部でしかないとは思うけれども。しかし高級寿司に行くことがちょっとした贅沢である階級の民は最早高級寿司を食べる必要はない。スシローはすでにかなりの段階で高級寿司の味を模倣できており、なおかつかなりの低コストでそれを提供できている。それでも尚あなたがスシローに行かない理由は何か。何もない。それが僕がスシローを全人類に勧める理由。スシローいかないことはあなたにとって損失だ。いけ、行くべきだ、今すぐ行くんだ。それがあなたにとって価値のある人生を送る理由になるのだから。

 

模範国民って何?我が母校についての疑問

我が母校の教育理念に「模範国民の造就」というものがある。すなわち模範国民を育成し、それを世に送り出すと言うことだ。だがこれはなんだ?何をもって模範国民と言うんだ?

そもそも「模範国民」なる概念がある時点でおかしくないか?「模範」とはおそらく社会が規定するもの、もっと言えば国家が規定するものであろうが、それは国民が国家に従属するとを肯定している以外の何者でもないのではないか?

その上我が母校は「学問の独立」「在野の精神」などと謳っている。これは矛盾ではないか?国家ありきの概念を掲げているにもかかわらず、国家に従属することを良しとしない。これはおかしくないか?

我が母校が真に一流になれない背景にはこうしたものがあるとしか思えない。すなわち矛盾を矛盾と思わず、耳障りのいい理念だけに飛びつき、強いものに巻かれて他を見下す精神。こんな状態で世界のトップ大学を目指すだなんて笑えてしまう。

我が母校は転換点にきている。数々の不祥事、内政の転換、変わるなら今だ。校友たちに誇りを持たせるような大学にせよ。以上

「論理的」「感情的」

「人間は理性的な動物である」などという哲学者がいるのだとすれば、その人は哲学者失格だ。確かに人間には理性的に考える「能力」は備わっている。人類がそれを以って発展していき、他の動物を圧倒するに至ることとなったのは周知の通りであろう。しかしながらそれは「人間は理性的な動物である」ということを意味してはいるわけではない。それが意味するところは「人間は理性を”持っている”」ということ、ただそれだけである。

結論から言おう。人間は感情的な動物である。それも究極的なまでに、である。

前置きが長くなった。本題に入ろう。そもそも本当に「論理的」であることは人類として可能なのだろうか。よく考えよう。例えば人類には数学がある。数学は確かに論理的だ。だが人類は数学の言葉で日常を語っているわけでもないし、数学に従って思考し、行動しているわけではない。人類はやはり自分の「好き嫌い」に従って判断し、行動する生き物なのである。この点についてもう少し思考を深めよう。

例えばあなたは「みんなが等しく幸福にあればいい」と考えるだろうか、それとも「幸福に格差はあったとしても社会全体の幸福の総量が大きくなればそれで良い」と考えるだろうか。あるいはあなたはこの2つの主張のどちらかが正しいと思うだろうか。もしあなたが「こっちが正しい」とどちらかに肩入れしたのだとすれば、あなたはその時点で感情的である。なぜならそれら両方の選択肢はどちらも論理に基づいていないからだ。よく考えればわかることだが、それらは実は感情に基づいている。

よく政治的な論争をする人たちがいる。何が正しい、何が正しくない、そういう何かしらの基準を以って、自分と対立した意見を持つ他者を糾弾する。彼らはもちろん自分が「論理的」だと思い込んでいる。しかしいかなる政治的主張も、根本まで分解すれば「感情」に行き着くことがわかる。例えば資本主義、自由主義の支持者がいるとしよう。彼はおそらく「幸福に格差はあったとしても社会全体の幸福の総量が大きくなればそれで良い」と考えてるはずだ。しかしそれは感情である。例えば、共産主義社会主義の支持者がいるとしよう。彼はおそらく「みんなが等しく幸福にあればいい」と考えているはずだ。しかしそれは感情である。このように分解して仕舞えば、いかなる政治的思想も感情の問題に落ちることがわかる。

倫理というものがある。これは何が正義か、何が悪かを規定する社会的規範である。しかしこれも究極的には感情に依拠している。したがって「正しさ」であったり、「悪」であったりは根本的には感情なのである。人は生きるに当たって何が正しいか、何が間違ってるかを判断基準にするが、それも感情なのである。

人は究極的には感情から逃れられない。論理的には生きられない生き物なのである。それでもなおあなたは「論理的に生きたい」と思うだろうか。そんなあなたにアドバイスがある。

「正、不正、そういった観念を全て排除せよ」

正、不正の間の線引きは全て感情によって行われている。

「物事を相対的にみよ」

絶対的な判断基準をあなたが持っているのだとすれば、それは十中八九感情に依拠している。十中八九といったが、もしあなたが何かしらの宗教に所属しているのだとすれば、あなたはおそらく正しい。それは感情ではないし、私はそこに介入するすべはないのだから。

「最も広い視点から世の中を俯瞰せよ」

そこから初めて見えてくるものがある。最も広い視点で見れば自ずと「論理」が見えてくるはずだ。

この3つの価値基準を持てば新しく見えてくる景色がある。それはある種地獄のような景色だ。暗闇の中で自身の生を模索しなければならない地獄のような景色だ。それを受け入れられるのであればあなたは真に論理的であるといえよう。

ある雨の日のこと

外ではコンクリートの肌を撫でるような音を立てながら雨が降り続いている。こういう日、私は窓際に丸い小さなテーブルと、木製の小さな椅子を置いて、降り続ける雨と外に見える緑を眺めながら静かに読書をする。テーブルの上にはティーカップに注がれたダージリンティーとスコーン。するりと抜けていくような雨音は、私の黙読する本のリズムと奇妙にマッチして、果てしない陶酔感を私に与えてくれる。外で「チュン」と鳥が鳴く。それがページをめくる合図だ。私は静かにページをめくりながら、また目に入る文字たちを黙読する。

 

時は静かに流れていく。柔らかな雨音と、時計が針を刻む音。そして私の読む本が奏でる音。全てが全てと合わさって一つの時間を作り上げる。私はこの瞬間のために生きているんだ。そんな風に思いながらまたダージリンティーを一口。

 

小説がクライマックスに差し掛かった。ふと気がつくと、外の雨は止み、空に虹がかかっていた。鳥たちが祝福の囀りをし、外の緑は自身についた水滴を震えながらはねのけていた。「これは物語なのだ、一つの物語なのだ」私はそう思いながら本を読み終えた。丁度ダージリンティーも飲み終えたようだ。私はそんな日曜日をとても嬉しく思った。

 

なんて日を過ごしてなんかいませんよー!くそ!

スシローへの愛

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いつも通りのある日のこと

私の住むマンションに「二、三時間断水します」との声が流れた。今までも何回かあったのかもしれないが、少なくとも私の在宅する中では初めてのことであったので、かすかな不安と好奇心とが私の中をうずまいた。
そのかすかな好奇心を頼りにして、洗面所のほうへ向かってみた。レバーを下げてみると、果たして本当に水が出ない。ニヤリ。何やら非日常的な出来事に出くわしているような気がして、私は奇妙な興奮を感じていた。
このような事態に対して、今のところうろたえることなく、むしろ楽しんでいるのは、私がこの状況に対して完全な支配をなしていると思っていたからである。自分はこのような状況にやられるほど愚かではない。そこらの人間と一緒にはしてほしくない。おおよそそんなことを考えていた。そしてそれは何も全く根拠がないわけではなかったのだ。

そうしてそのニヤケ顔を保ちながら、私は自宅用に設置してあるウォーターサーバーへと向かった。電気までは止まっているわけではないのだから、ここは正常なのである。いつもウォーターサーバーについているランプがこの状況においても変わらずにいることを確かめて、またニヤリ、台所へと向かった。もはや私は全能だった。行くところに敵なしとはこのことを言うのかと、どこか興奮が増してくるのをひしひしと感じた。
どうせだったら一番上等なコップで飲んでやろう。そのコップで飲んでやることで、私はこの状況においてピラミッドの頂点に君臨するのだ。そんな気持ちで戸棚の奥の方を探って、何やら妥当そうなコップを引き出してみた。

少しホコリがついているな。
それを洗い落とそうと、台所のレバーを引いてみると、ああ、何たることか、水が出ないではないか。断水のやつ、どうやらただの木偶ではないようだ。しかし、この程度ではまだまだ敗北とはいえない。こうなったら徹底抗戦してやる。そんな意思がふつふつとわいてきた。
今朝食洗機にかけて、まだ戸棚にしまっていない食器の中からコップを取り出した。綺麗だ。これなら文句がないだろう。わはは。そうして私は前以上のにやけ顔を顔に浮かべながら、ずかずかと、無造作にウォーターサーバーのほうへと向かった。
安全装置を解除して、冷水ボタンを押す。果たしてジョボジョボと水が出てきた。ああ、甘美な響き。完全なる勝利。断水が何だ、ただの一人の人間も困らせることができないではないか。勝利の水を飲みながら、こんなに水を美味しく飲むのはいつぶりだろうかと感慨にふけった。

温水のほうも押す。あっ。はねた水が手の甲に当たり、思わず手を放してしまった。コップはきれいな軌道を描くこともせずに、品もなくボトリと落ちた。中の温水はカーペットにしみこみ、カーペットの色を暗くしていた。そこでまた私はニヤリとした。
何たることか、水を無駄にしてしまった。ふふふ。
水を無駄にした。普段のエコマニアな私には耐えられないことであるが、この時の私はエコマニアである以前に、断水との戦闘状態にあった。例え善良で通っていて、蚊すら殺せないといわれている人間だって、戦場では人を殺すのである。この時の私は水を無駄にできることに至上の喜びを感じていた。こうなったら善だとか悪だとかいう概念は関係ないのだ。
目の前の敵に一泡吹かせるのが自身の紛れもない主観的正義なのである。
さて、ガボガボ飲んで断水の野郎に嫌がらせでもしてやるか。

そんな勢いで飲んでいた時、何やら正体不明な不安感が襲ってきた。いや、正体などとっくにわかっているのだ。それをわからないなどというのは、西からやってくる雨雲を見て、今日はいい天気だなとつぶやくような現実逃避なのである。
トイレは流れるのか?
それを明確に意識した瞬間、私の尿意は急激に膨らんできた。断水の野郎、この瞬間まで着々と伏線をはっていやがったんだな。私が完全勝利に酔いしれて、勝利の祝杯を見せつけるかのように飲みまくるところまですべてお前の作戦だったのだな。私は嘆いた。
いや、まてよ、断水した業者もそこまでひどくないんじゃないか。つまり、さすがにトイレくらいは水を流してくれるだろう。そんな淡い(とはわかっていたけれども、その時はなぜか確信に近かった)期待を胸にして、おそるおそるトイレに近づいた。
ドアノブをゆっくりと下げ、中に入る。
さて、レバーを引いてみるぞ。

ゴゴゴ。激しい音を立てて、便器の中の水は奥へと吸い込まれていった。
ヒャフ。そんな声が漏れていたと思う。断水に対して完全なるチェックメイトをかけた気分だ。ああ気分がいい。
などと思っていると、何かがいつもと違うことに気が付いた。吸い込まれていったはいいが、便器の中の水量が元に戻らないのだ。もしかしてと思い、もう一度レバーを引いてみた。
流れない。その時、唯一無二のチャンスを棒に振ってしまったということに気づいた。あの一回が最初で最後だったのだ。
絶望。
というほかなかった。断水の野郎は私の一歩も二歩も先読みしていたのだ。私のニヤケ顔を見るたびに、あいつは高笑いをしていたに違いない。あるいは、もしかしたら私は、彼の予想以上にどんどんと嵌っていたのかもしれない。

ただ、あきらめなかった。ここで諦めるのが一流と二流の差なのだ。私は確実に一流側の
人間。道は必ずある。
アイディアは比較的すぐに出てきた。
そうだ、震災の時は風呂の水を便器に汲んで、それで流していたな。わはは。どうだ。これが一流と二流の人間の差なのだ。断水よ、お前は私のことを二流だと勘違いしていた。それがまさしくお前が二流であることの何よりの証左なのだよ。
私はそんなことを思いつつ鼻歌を鳴らしながら浴槽へと向かった。さあって、これで私の勝利だ。
そういってふたを開けてみたが、水は一滴たりとも入っていなかった。そういえば昨日はシャワーで済ませたのだった。

 

そこで私は急な用事を思い出して、近くのコンビニへと向かったのだった。

眠剤と共に飲む酒はうまい

そうだよな、みんなわかってくれると思う。

うまいって言っても味がうまいわけじゃない。酒は酒の味だし眠剤眠剤の味がする。そうじゃないんだ、要は酒や薬の効きが「うまい」んだ。

眠剤と酒を一緒に飲むとな、頭の働きがほぼ完全に停止して、世の中の悪いことも何もかもが綺麗さっぱり目の前から消えるんだ。不安?そんなものは吹き飛ぶよ。なんたって酒だってベンゾジアゼピン系の眠剤だってどっちだって作用機序はGABAA受容体と結合するんだ。そりゃあ不安も無くなるさ。要は最高の飲み合わせなんだこいつらは。

ただやりすぎは良くない。すぐに耐性がついてしまう。散々言っておいてなんだがほどほどにしろよ。じゃあな!